神様とアブラハムの言約

担任牧師コラム

これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

創世記 15:1

聖書は、アブラハムを「信仰の祖先」と呼び、祝福の通路であることを強調しています。

このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである

ガラテヤ人への手紙 3:9

アブラハムの信仰を学ぶ事は、まさしく祝福への近道であると言えます。

エラムのケダラオメル王は、5ヶ国の連合軍を率いてソドムとゴモラに侵攻し、これを占領します。この時、ソドムに住んでいたアブラハムの甥であるロトとその家族が捕虜となり、その財産を没収されたことを聞いたアブラハムは、318人の家臣団を率いて夜襲をかけ、連合軍をことごとく追い払い、ロトとその家族、財産を奪い返しました。軍事的に考えれば、アブラハムが勝てる要素は何ひとつありませんでしたが、神様が共におられたので、勝利をすることができたのです。

喜びと感謝を叫びながらアブラハムが凱旋すると、ソドム王とサレム王が待っていました。

アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた。その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った、「願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」。

創世記 14:17~20

この時、アブラハムはメルキセデクの祝福のとりなしに応え、什一を捧げます。しかし、ソドム王の申し出については拒否しました。

アブラムはソドムの王に言った、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。 わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。

創世記14:22~23

この告白が、アブラハムを「信仰の父」、「神様の友」と呼ばせたのです。アブラハムの什一の捧げものと信仰告白をお聞きになった神様は、偉大な告白、祝福をアブラハムに与えます。

「アブラムよ恐れてはならない、私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」でした。これほどの祝福があるでしょうか。神様の感動を感じます。

アブラハムの信仰を学ぶためには、アブラハムが神様をどのように認識していたかを知らなければなりません。神様がどのようなお方であるかを知ることが大切なのです。それを、大祭司たるメルキセデクが、明確に表現をしています。

まずは、「天地の主」なるお方です。天地万物を創造され、所有し、治めておられるお方です。つまり、絶対主権的神様として受容れなければならないのです。

また、「いと高き」お方です。当時、偶像礼拝がはびこり、それぞれが競って、高い場所に神殿を建てました。それらとは較べものにならない至高なるお方だと言うことです。

そして、アブラハムを祝福されるお方、即ち、「祝福の神様」であり、敵をアブラハムの手に渡されるお方であることを明らかにしました。アブラハムは、Good God! であられる良き神様を信じたのです。このお方を信頼する事により、肯定的・創造的・生産的・建設的・積極的想いを常に持つ事ができました。ここに信仰の基(もとい)があります。

チョー・ヨンギ先生は、開拓の始め、「審判の神」を語りました。残念ながら、ただでさえ苦しい生活の中で、誰もそのメッセージに喜びを見出すことができませんでした。

しかし、ある日「よい神様」を知り、「愛の神様」「祝福の根源であられる神様」を語り始めたところ、教会の大リバイバルが始まったのです。神様は、イエスキリストを通してご自身が「良い神様」である事を現わしてくださいました。

その独り子を賜ったほどに私たちを愛してくださっています。また、イエス・キリストは、十字架の死に至るまで従順であられることにより最後まで私たちを愛しぬいて下さいました。アブラハムはこの神様を信頼し、全てを委ねる信仰を得ました。間違いなくこの信仰が、アブラハムの得た祝福そのものでした。

汝矣島純福音教会の聖徒達は、同じ信仰を持ち、どんな逆境の中でも希望・夢・ビジョンを棄てませんでした。聖徒の皆さんが、その結果として神様から頂いた祝福の総合計が、汝矣島純福音教会を世界最大にしたことを忘れてはなりません。

王の谷において、神様とアブラハムの間に契約が成立しました。契約は、相互主義です。一方的な契約は、あり得ません。アブラハムは、神様の御前で、ソドムの王に対し、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。 わたしは糸一本でも、くつひも一本でも、あなたのものは何にも受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。」と告白します。

アブラハム側の契約履行における義務条項を宣言したのです。なおかつ、什一を捧げる事により、実際に行動の伴った義務を果たしたのです。これが、什一献金の本質です。

アブラハムの契約オファーに対する神様の応えは、「アブラムよ恐れてはならない、私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。 でした。

神様は、メルキセデクを通してパンと葡萄酒を持って祝福することにより、この契約の担保とされました。それは、イエス・キリストの十字架の贖いを表します。これほど偉大な契約が他にあるでしょうか。この契約は、イエス・キリストのモデルであるメルキセデクを通して、将来のイエス・キリストによる新しい契約の予標でもあります。イエス様は、鞭うたれ、茨の冠を被り、十字架に釘付けられる事によって、神様との和睦の生贄として自らを捧げ、神様のたてられた契約を履行して下さったのです。

神様は、新しい契約を通して、カルバリの十字架から流れる罪の赦し、聖霊充満、病の癒し、呪いが除かれたことによる真の祝福、そして永生天国を与えて下さいました。

イエス様が、十字架上で「テテレスタイ」「全てを成し遂げた」と宣言された瞬間、聖所と至聖所の間の垂れ幕が天から切り裂かれ、イエスキリストの子羊の血潮を心の門の柱と鴨居に塗った者、即ち、救い主を受容れた者、神様の契約を受容れた者は、誰でも神の御前に立つ事のできる義人として認められ、且つ、神の子女になる力が与えられたのです。

私たちは、ただただ、ひれ伏して感謝するのみです。この恵みにどうすれば少しでも報いることができるでしょうか。什一は、キリスト人の献身の象徴です。奉仕・献身は、神様に対する愛の告白の実践であり、同時に信仰の標でもあります。

アブラハムが、「信仰の父」と呼ばれる由縁は、彼の信仰告白にあります。自分自身の暮しの資源・祝福の根源は、全て神様にあるとの告白でした。

2025年、同じ信仰告白が、皆さんの唇にいつも共にありますように。

私たちの神様は、よい神様であり、備えて下さるヤーウェ・アイレ、勝利して下さるヤーウェ・ニッシ、癒して下さるヤーウェ・ラッファ、私たちの牧者ヤーウェ・ロイ、いつも共にいて下さるヤーウェ・シャンマ、義なるお方ヤーウェシュ・ドゥゲヌ、平安の根源であるヤーウェ・シャロームと言う七つの聖名をお持ちです。

神様の限りない愛に応えるためにも、感謝に満ち溢れる素晴らしい年となりますように。私たちの暮しそのものが、神様の栄光に繋がります様に、主イエス・キリストの聖名によってお祈りいたします。

純福音東京教会 担任牧師 志垣重政