あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、賛美するが良い。
ヤコブの手紙 5:13
誰もが幸福を願い、苦難を望む人はいません。しかし、苦難は必ず訪れます。苦難に会った時、どう祈ったら良いのでしょうか。
第一は、悔い改めの祈りです。人は平素、自分の犯した過ちや罪について深く考えませんが、苦難に会うと、「もしかして・・・」と思いを巡らすようになります。そして、神様に背いたこと、礼拝を疎かにしたこと、神様を愛さなかったこと、家族や友人を愛さなかったこと、隣人を愛さなかったことに気づきます。苦難に会い、素直になって自分自身を振り返り、己の過ち・罪科を悟るのです。
順風満帆な暮らしだけだったら、私達は悔改めることはしないでしょう。苦難は真の悔改めの機会なのです。私たちの信仰を強めるために、試練は必ず訪れます。人生の方向を修正する機会であることを悟りましょう。
モーセは40年、アブラハムは25年、ヤコブは20年、ヨセフは13年の試練に会いました。その苦難の後に、信仰の先輩たちがどれほど大きな祝福を受けたかを皆様はご存知のはずです。アダムの子孫である私たちの属性は、不従順・不信仰です。イエス様を受け容れても、この本性は簡単には変わりません。だからこそ、神は苦難を通して悔改めの機会を与えて下さるのです。
第二は、感謝の祈りです。平素、人は全ての環境的祝福に対して無感覚です。当たり前のように享受するのみです。しかし、苦難に会うと、輝く太陽・新鮮な空気・清い水・五穀百果に感謝するようになります。愛する家族に感謝するようになり、友人や隣人の尊さを知るようになります。何よりも神によって生かされている事に気づくのです。
余命三ヶ月を宣告された青年の日記に、食事を感謝し、噛みしめながら味わい、コップ一杯の水もゆっくりと頂く喜びを知ったとあります。
病に陥った時、健康の有難さを知ります。家を去った時、家庭・家族への感謝を思い起こします。軍隊に入り、厳しい訓練を受けた青年が、親孝行に変わるのは当然のことなのです。
すべてに感謝することを学びましょう。苦難は感謝を学ぶための教材です。「感謝の生贄を捧げる者は、私を崇める」(詩編50:23)とあります。感謝を知らない人は、香りのない花、歌を忘れたカナリヤです。普段は、無いモノを見つけては、不平不満を言っていた人が、苦難に会い、有るモノを見つけて感謝するようになります。感謝は、人生の価値観を変えてくれます。苦難は人生病に対する神の処方箋なのです。苦難の際、不平不満は毒草になり、感謝は良薬になることを悟りましょう。
第三は、信仰の祈りです。平常時に祈ることをしなかった人が祈るようになります。苦難は祈りを覚えるための鞭です。困難な時、人は切実な礼拝を捧げるようになります。知らないうちに祈り始めている己を発見します。そして、その祈りを通して信仰が強められていくのです。
苦難にあるとき、信仰を学びます。「彼が私と呼ぶとき、私は彼に答える」(詩編91;15)、「私を呼び求めよ、そうすれば、私はあなたに答える」(エレミヤ33:3)。祈りによって神の答えを受け取り、更に信仰が深まっていきます。苦難は神の答えを受け取る機会を与えてくれます。信仰が成長していき、動揺しないものに変わります。
苦難は心身に衝撃をもたらす大事件です。しかし、苦難がなかったらイエス様に出会えたでしょうか。皆さんは、苦難を通して、不純物のない純金へと精錬されていくのです。主の偉大な恵みが皆さんと共にありますように。